鎌倉時代(10)

鎌倉時代(9)に引き続き、鎌倉時代の宗教を見ていきましょう。
今日はプリントの残っている部分、水色のところを埋めていきますよー☆

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②【題目】(だいもく)をとなえる宗派…1つ

◎日蓮宗(にちれんしゅう)、または、法華宗(ほっけしゅう)
・開祖:日蓮(にちれん)
・中心寺院:山梨の久遠寺(くおんじ)

承久の乱(じょうきゅうのらん)の翌年である1222年、
日蓮は安房国(あわのくに、現在の千葉県)の海辺のむらに生まれます。

12歳ごろ、近所にある天台宗(てんだいしゅう)のお寺で学びはじめるのですが、
お釈迦(しゃか)さまがはじめた仏教にどうしていろんな宗派があるのか、
そのいろんな宗派はどうしてモメているのか、
仏教を信じていても、戦乱や疫病(えきびょう)・飢饉(ききん)などにどうして苦しめられるのか、
などなど、さまざまな疑問をもつようになります。

その答えを求める日蓮は、出家して様々な経典の研究に励み、
比叡山(ひえいざん)をはじめ、高野山(こうやさん)・京都・鎌倉などで学びを深めます。

そうして日蓮が満31歳のとき、
(みょうほうれんげきょう)、略して法華経(ほけきょう)こそが最もすぐれた経典である、
との考えに至り、
「南無妙法蓮華経」(なんみょうほうれんげきょう)ととなえることを人々に広めはじめます。
法華経というお経の題名をとなえるので、この漢字7文字を題目と呼びます。

ちなみに、「南無」(なむ)というのはサンスクリット語で「帰依(きえ)する」という意味で、
ざっくり訳すと「お任せします」なんだとか。
インドのご挨拶である「ナマステ」の由来は、「あなたに(te)帰依する(namas)」なのだそうですよ。

つまり、「南無妙法蓮華経」は「法華経にお任せします」という意味なのです。
一方、「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)は「阿弥陀仏(あみだぶつ)にお任せします」という意味で、
こちらは阿弥陀仏という仏様の名前をとなえるので、念仏と呼びます。

さてその後、日蓮は政治の中心地である鎌倉にうつり、道ばたで演説するなどして、
「法華経こそがお釈迦さまの本当の教えである!題目をとなえるのだ!!」と説いて回ります。

ん?
てことは、題目をとなえないほかの宗派はダメってこと??
このころ世間でめっちゃ念仏バズってんだけど、それもダメってこと???

うん、ダメなんですよ!
日蓮的にはダメなんですよ!!
法華経こそが真実であるので、念仏もほかの宗派もダメなんですよ!!!

よって、日蓮はいろいろなところで衝突することになります。
あーーー…まぁそりゃそうなるヨネーーー…

そんなとき、多くの人命を奪う大地震が鎌倉を襲います。
ショックを受ける日蓮は、なぜこのような災害が起こるのか、どうすれば災害が起こらなくなるのか、
その答えを求めてさらにお経を学び、『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)を書き上げます。

法然(ほうねん)たちのように、念仏をとなえて極楽に往生することを願うのではなく、
しい法華経を中心にてれば、家はらかになる」、
すなわち、法華経の力でこの世は極楽になりえる、と日蓮は説くのです。

では、『立正安国論』にはどんなことが書いてあるのかというと…
「人々が法華経を信じずに法然の教えなんかを信じているせいで、
本来、日本を守ってくれるはずの神様や仏様が逃げ出してしまい、かわって悪い鬼が入ってきている。
大きな災害が次々と起きるのはそのせいだ。
災害をとめるには、為政者(いせいしゃ)が法華経に帰依しなければならない。
さもなくば、国内では反乱が起こり、外国からは侵略を受けて、この国は滅ぶであろう~!!」
てな感じです。

えっ、ナニその予言!
「法華経信じないと日本滅亡」ってか!!
ヤダめっっちゃコワイやん!!!

日蓮はそんな『立正安国論』を、前執権(しっけん)で得宗(とくそう)の北条時頼(ほうじょうときより)に提出しちゃいます☆

んが、残念ながら鎌倉幕府からはガン無視され、
念仏信者たちからは怨(うら)まれて襲撃されたりします。
それでもめげずに布教活動を続ける日蓮は、伊豆国(いずのくに)に流罪(るざい)となってしまいます。

「迫害されるのは法華経を広める者の証なのだ!」と、襲撃や流罪をポジティブにとらえる日蓮は、
2年ほどで赦(ゆる)されると、鎌倉に戻って布教を再開します。

するとね…

アレが鎌倉に届くんですよ!

アレですよアレ!!

そう、フビライ=ハンからの国書です!!!
(詳しくは1274年のゴロあわせをどうぞ☆〔2回目〕のところの国書です)

日蓮は「ホラ!モンゴルが攻めてくるってよ!!ワタシの予言通りじゃん!!!」と、
自信満々に8代執権(しっけん)の北条時宗(ほうじょうときむね、北条時頼の息子)に訴えます。

そのうえ、
「鎌倉にある他の宗派のお寺を焼き払い、建長寺(けんちょうじ、臨済宗(りんざいしゅう))の蘭溪道隆(らんけいどうりゅう、あとで出てきます)とか極楽寺(ごくらくじ、真言宗(しんごんしゅう))の忍性(にんしょう、鎌倉時代(9)で登場)とかの首をはねて鎌倉の海岸にさらせ!」
とか言っちゃいます。

あかんて…
そんな過激なこと言うたらあかんて…

ほかにもなんやかんやとありまして、
結果、御成敗式目(ごせいばいしきもく)第12条の「悪口の咎(あっこうのとが)」により、
日蓮は佐渡国(さどのくに)に流罪となってしまいます。
この時代、あまりにもヒドい悪口を言ったら流罪になるんですって!!
SNSとかでいろいろ言いがちな現代人にはゼヒ知っておいてほしいところです(笑)

ちなみに、ホントはこのとき日蓮は斬首されることになっていたのに、
処刑人が日蓮の首を落とそうと刀を振り上げた途端、とんでもない発光体が現れて目がくらんだため、
刑の執行は中止になった、なんてウワサもあったりします。

えぇっ、発光体ってナニ?
もんのすごい光るナニかが日蓮を救ったってこと!?
でも「悪口の咎」の最高刑は流罪なので…まぁこれは…作り話かな…ウン…

日蓮は、佐渡で2年半ほど過酷な流罪ライフを送り、1274年3月に鎌倉に戻ります。
このころ蒙古襲来(もうこしゅうらい)がいよいよ現実味を帯びており、
鎌倉幕府は日蓮にそれを食い止めるための祈祷(きとう)を依頼します。

が、他の宗派にも祈祷を依頼していると知った日蓮はこれを拒否し、
甲斐国(かいのくに、現在の山梨県)の久遠寺にこもって弟子たちの育成に励みます。

そしてついに1274年10月、文永の役(ぶんえいのえき)が起こります。

これを知った日蓮は、
「法華経を信じる者を迫害するから神様が日本に罰を与えたのだ!
鎌倉にあるお寺も大仏もみんな焼き払い、あらゆる僧侶をことごとく処刑せよ!!」
とか言っちゃいます。

またアンタ…
そんなん言うたらあかんて…

でもこれだけ過激なことを言っちゃうのは、
「法華経だけが真実!他の宗派はダメ!!」という日蓮の信念ゆえなのでしょうね。…

そんな日蓮は、次第に体調を崩すようになり、1282年に満60歳でこの世を去っています。

・主著:『立正安国論』
    …前執権・北条時頼に提出した建白書
     天変地異が続く原因は、法華経の正しい教えに背いているからであり、
     念仏を禁止しなければ自国の反乱と他国からの侵略があると予言
・教義:法華経のみを釈迦の正しい教えと考え、題目をとなえれば救われると説く

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*   *   *

③【坐禅】(ざぜん)をおこなう宗派…2つ

坐禅とは、両足を組んですわり、目を半開きにして、心を無(む)にする修行で、
それによって悟(さと)りの道を求めるのが禅宗(ぜんしゅう)です。

そもそも禅宗を開いたのは、インドに生まれた達磨(だるま、覚えなくてOK)という人物です。
彼は6世紀のはじめごろ、南北朝時代(なんぼくちょうじだい)の中国にうつり、
9年ものあいだカベに向かって坐禅をし続け、悟りに達したんだとか。

ダルマさんって知ってますよね?
選挙とかで勝ったら黒目を描き入れる、あの赤くて丸いヤツです。

ダルマさんのモデルは、この達磨というインド人なのです。
なんでも、達磨はあまりにも長いあいだ坐禅を続けたため、手足が腐ってしまったんだそうで、
そこからダルマさんというキャラができたんだとか。

ダルマさんのまさかのキャラ設定…めっちゃコワイ…

その後、中国では禅宗からたくさんの宗派が生まれます。
ここでは、鎌倉時代に日本に伝わった2つの禅宗を見ていきましょう。

◎臨済宗
・日本の開祖:栄西(えいさい、または、ようさい)
・中心寺院:京都の建仁寺(けんにんじ)

1141年、備中国(びっちゅうのくに、現在の岡山県)に生まれた栄西は、
14歳ごろ比叡山にのぼり、出家して天台宗を学びはじめます。

とはいえ、このころの天台宗は貴族とズブズブの関係にあって、どうも腐敗してるんですよねー…

そこで栄西は、満26歳のとき南宋(なんそう)に留学し、
天台宗のはじまりの地である天台山(てんだいさん)などで半年ほど修行に明け暮れます。

当時、南宋では禅宗が栄えており、
日本の仏教の立て直しに必要なのは禅宗なんじゃないか、と考える栄西は、
満45歳にして再び南宋へわたり、禅宗のひとつである臨済宗をがっつり学びます。

4年におよぶ留学から帰った栄西は、九州で臨済宗を広め、さらに京都での布教を目指しますが、
比叡山がこれに強く反発し、朝廷から禅宗を停止するよう命じられてしまいます。

そこで栄西は、『興禅護国論』(こうぜんごこくろん)を書き上げ、
臨済宗は比叡山の教えを否定するつもりはないことを訴えます。
そのうえで、日本の仏教の復興には禅宗が必要であること、
つまり「宗をすことは、ることにつながるんだ」、と説きます。

しかし、やはり京都での布教は難しいと判断し、鎌倉にうつると、
栄西は縁あって鎌倉幕府2代将軍の源頼家(みなもとのよりいえ)や、
その母・北条政子(ほうじょうまさこ)の帰依をうけることになります。

そうしてついに、源頼家の全面的な援助のもと、京都に初めて禅宗のお寺である建仁寺を建立します。
とはいえやはり旧仏教側の目も気になるので、
天台宗・真言宗(しんごんしゅう)・臨済宗の3つを学べるお寺、という形で始まったようです。

さて、臨済宗で大切にされている修行はなにかというと、
坐禅と公案問答(こうあんもんどう、または、禅問答(ぜんもんどう))です。
臨済宗を学ぶ僧侶は、師匠の僧侶から公案(こうあん)と呼ばれる禅にまつわる問題が与えられます。
その答えを一生懸命考え、師匠と問答することが、悟りをひらく手助けとなるのだそうです。

有名な公案に、こんなものがあります。

「両手を叩くと音がする。では片手ではどんな音がするだろう。」

えぇぇぇぇぇ、分からん…
深い…深いぞ公案…

でもなんか…この答えを見出せたら…人間としてバージョンアップできそう…
「コレ!」という答えのない公案に取り組むなかで、悟りに近づいてゆくのでしょうね。

そんな臨済宗を日本に伝えた栄西は、1215年に建仁寺で74年にわたる生涯を閉じることになります。

その後、南宋から蘭溪道隆と無学祖元(むがくそげん)という臨済宗の僧侶がやってきます。

蘭溪道隆は1246年に来日し、北条時頼の帰依をうけて鎌倉に建長寺をひらきます。
(さきほど日蓮に「建長寺の蘭溪道隆の首を鎌倉の海辺にさらせ!」って言われてましたね…)

1278年に蘭溪道隆が亡くなると、北条時宗は南宋に使者を派遣し、後継ぎとなる禅僧の派遣を要請します。
こうして来日するのが無学祖元で、彼は建長寺に住んで鎌倉の武士たちに臨済宗の教えを説きます。
また、弘安の役(こうあんのえき)の翌年に、北条時宗は蒙古襲来で命を落とした人々を供養するため、
鎌倉に円覚寺(えんがくじ)を建てるのですが、その初代住職にもなります。
円覚寺については次回ご紹介しますね~。

・主著:『興禅護国論』
     …旧仏教側からの非難を受け、禅宗の本質を説く
    『喫茶養生記』(きっさようじょうき)
     …3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)に献上
      南宋から茶の種を持ち帰った栄西が、茶の薬効などを説く
・教義:坐禅と公案問答によって悟りに達する

*   *   *

◎曹洞宗(そうとうしゅう)
・日本の開祖:道元(どうげん)
・中心寺院:福井の永平寺(えいへいじ)

道元は1200年に公家の家に生まれます。
幼くして難しい書物を読みこなす天才ぶりを発揮し、満13歳のとき比叡山で出家します。
しかし、天台宗の教えに満足せず、建仁寺で栄西の弟子から教えを受けるようになります。

満23歳で南宋にわたると、曹洞宗の只管打坐(しかんたざ)を学びます。
これまた難しい四字熟語が登場しましたが、只管とは「ひたすら」という意味で、
公案などを用いずにひらすら坐禅をする、という修行です。

4年の留学から帰国すると、道元は京都にお寺を建てて、坐禅ができる環境を整えます。
しかし、弟子の数が増えるにつれ比叡山から弾圧を受けるようになり、
越前国(えちぜんのくに、現在の福井県)にうつって永平寺をひらきます。

このころ道元は、すでに『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の執筆に取りかかっています。
これは、道元が20年以上の歳月をかけ、生涯をささげて書いた曹洞宗の根本聖典です。

日常生活のすべてを修行ととらえる道元は、『正法眼蔵』のなかでさまざまな作法を定めています。
たとえば、歯磨きと洗面の部分をざっくり見てみましょう。

永平寺の修行僧は、朝3時半ごろに起きると(早いぃぃぃ…)、
衣をととのえて洗面所で歯磨きと洗面をおこないます。

まずは歯磨き。
この時代、楊枝(ようじ)と呼ばれる小枝を噛みつぶしたもので歯を磨くのですが、
楊枝をもつのは右手、とか、楊枝を噛みつぶすのは3分以内、とか、楊枝のベストな大きさ、とか、
道元はほんとに細かいところまで『正法眼蔵』に書いています。

また、歯磨きのあとはそのまま楊枝でベロもみがくよう定めていますが、
血が出たらすぐやめる、というなんとも気遣いあふれるきまりまで作っています。
さらに、うがいの方法はもちろんのこと、楊枝の捨て方まで記しています。

次に洗面。
両手で水をすくうと、
おでこ→まゆ毛→目→鼻の穴→耳のなか→頭→ほっぺた、という順番で洗うよう書いてあり、
このとき使うタオルも、大きさからたたみ方、色にいたるまできっちり定めています。

なお、歯磨きと洗面は桶(おけ)にくんだ1杯の水で済まさなければなりません。
歯磨きのあいだジャージャー水を出しっぱなしにする現代人なんて、もってのほかなのです!

ところで、歯磨きと洗面について、なぜこんなにも細かい作法を定めているのかというと、
道元が留学していたころの南宋では、顔は洗うけれど歯磨きの習慣はなく、
現地の人はみんな、それはそれはもうおクチがたいへんクサかったそうです。
道元は、60~90cmくらい離れてしゃべるのもクサくて耐えられんかった、と『正法眼蔵』に書いています(それ、書いちゃうんだ…笑)。

逆に当時の日本には顔を洗う習慣がほとんどなかったんだとか。

道元、カルチャーショック!!

悟りを目指すのに、クチがクサかったり、顔が汚かったりしたらアカンと思う!
まずは歯磨きと洗面をきっちりして、心と体をきれいにしないとアカンと思う!!
そう考える道元は、『正法眼蔵』に歯磨きと洗面の作法を細かく記すに至るのです。

ちなみに、書かれているのは歯磨きと洗面の作法だけではありません。
手足の爪をちゃんと切るっていうルールもありますし、
トイレの使い方はもちろん、なんとおしりの拭き方まで、ほんとうに細かく書いてあります。
日常生活のありとあらゆる作法を、修行として『正法眼蔵』のなかで定めているのです。

さて、道元は5代執権・北条時頼の誘いを受けて鎌倉に赴いたりもしますが、
権力をきらってか、半年ほどで永平寺に戻り、1253年に病のため満53歳でこの世を去っています。

・主著:『正法眼蔵』
     …曹洞宗の根本聖典
・教義:只管打坐
    …ひたすら坐禅をおこなう

*   *   *

長くなりましたが、禅宗の二人をイラストでまとめておきましょう。

鎌倉10-2.jpg

ダルマさんが中国でひらいた禅宗のうち、
臨済宗を日本に伝えたのが栄西、
曹洞宗を日本に伝えたのが道元、です。
江戸時代にもう1つ、黄檗宗(おうばくしゅう)という禅宗が伝わりますが、それはまたのちのち…

それにしても…いやー…栄西のビジュアル、すっごいですよね…
初めて肖像画見たとき、「え!?頭なっっが!!!」って二度見しましたもん。
きっとめちゃくちゃたくさん脳みそがつまっておるのでしょうね。

ちなみに、栄西は右手にお茶を持っていますね~。
そもそもお茶は、平安時代には中国から日本に伝わっていたものの、
それはそれは貴重な品だったので、限られた人の口にしか入らなかったんだとか。

その後、栄西が留学先の南宋からお茶の種を持ち帰り、栽培を開始します。
栄西はお茶の薬効や栽培方法などを『喫茶養生記』にまとめ、
二日酔いに苦しむ3代将軍・源実朝に献上したとも伝わっています。

また、栄西のもとで禅を学ぶ明恵(みょうえ、鎌倉時代(9)で紹介した釈迦LOVEの僧侶です)にお茶の種を分け与えたところ、
明恵は高山寺(こうざんじ、または、こうさんじ)でお茶の栽培を始めます。
これがお茶の栽培にめちゃめちゃマッチする土地だったようで、高山寺は有名なお茶の生産地となり、
そこから宇治をはじめ各地に広がってゆき、お茶を飲む習慣が日本に浸透することになるのです。

それから道元について、すんごくどうでもいいお話をしますと…
歴史マンガで道元のビジュアルを初めて見た小学6年生の私は、
「えっ、阪神の岡田彰布やん!!」と衝撃を受けました(そのころは現役の選手でした)。
似ていると思っているのは私だけなのかもしれません…

*   *   *

たいへんお疲れさまでした!鎌倉仏教はこれでおしまいです!!
長すぎましたよねゴメンナサイ。

でも…なんか…時間軸わかりにくくないですか?
てなわけで、鎌倉仏教6つすべてを年表スタイルでまとめてみました。

鎌倉10-3.jpg

これをみれば、
みんなはじめはだいたい比叡山で勉強するんだな(んで腐敗に気付いて開宗)、とか、
法然と栄西の活動が早いんだな(んであとから日蓮にディスられる)、とかイロイロつかめると思います。
がんばってください!!

*   *   *

ワーイ!これで終わった~!!って思ったら…プリント右側にまだ空欄がありました…

(3)神道(しんとう)

さてみなさん!問題です!!

神さまは、仏さまが権(かり)に形をかえてこの世に現れたもの、
という思想をなんというかおぼえていますか?

ハイ、答えられましたか?

正解は、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)です。

仏さまを本地(ほんじ、本来の姿)、神さまを垂迹(すいじゃく、かりの姿で現れること)ととらえる
思想で、
ざっくり言うと「神さまは仮の姿で、本当は仏さま」って考えです。
忘れちゃったよーって人は、平安時代(9)を復習してくださいね!

その後、「蒙古襲来のとき、日本に神風(かみかぜ)が吹いてモンゴルの船を沈めた」というウワサがたち、
鎌倉時代末期には「日本は神々に守られし国なのだ!」という意識が広がります。

それなのに、神さまが仮の姿とはけしからん!
「仏さまは仮の姿で、本当は神さま」なのだ!!という考えが生まれます。

神さまを本地、仏さまを垂迹ととらえるこの思想を、
神本仏迹説(しんぽんぶつじゃくせつ)、または、反本地垂迹説(はんほんじすいじゃくせつ)といいます。

ハイ、ややこしいぃぃぃーーー…どっちがどっちか分からネェーーーーーー…
ってなりますよね。

大丈夫、イラストでまとめますよ★

鎌倉10-4.jpg

真ん中にいるのは、伊勢神宮(いせじんぐう)外宮(げくう)の神職(しんしょく)である度会家行(わたらいいえゆき)です。

お父さんの度会行忠(わたらいゆきただ)と、その息子である度会家行がとなえた神道理論を、
伊勢神道(いせしんとう)、とか、度会神道(わたらいしんとう)と呼びます。
度会家行は、著書『類聚神祇本源』(るいじゅうじんぎほんげん)で伊勢神道の思想をまとめています。

彼らは外宮に奉仕する立場なので、
豊受大神(とようけおおみかみ)という食べ物の神さまを祀る外宮が、
天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る内宮(ないくう)に劣るものではない、と主張するとともに、
神本仏迹説の確立を図ります。

*   *   *

はーーーー、これでプリント全部埋まりましたよ!がんばりましたね☆
最後に解答を載せておきましょう。

鎌倉10解答.jpg

いやー、ほんとにお疲れさまでした…

次回は鎌倉文化の文学と建築をサラッと…ほんとにサラッと終わらせましょう!
鎌倉仏教でめちゃんこ時間がかかってしまったので(ゴメンね、でも本当にまとめるのたいへんだったんだ…)、なるはやで更新します★

【参考文献】
五味文彦編『日本の時代史8 京・鎌倉の王権』(吉川弘文館、2003年)
栄西禅師開創八〇〇年記念特別展覧会『京都最古の禅寺 建仁寺』(京都国立博物館ほか、2002年)
石川堯雄「正法眼蔵の衛生思想ー特に口腔衛生についてー」(『日本歯科医師学会会誌』第6巻第2号通巻20号、1978年)
カクヨム「正法眼蔵の現代語訳」https://kakuyomu.jp/works/16817330660443291171







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この記事へのコメント

  • たかっち

    ご無沙汰いたしております。
    久しぶりの更新、嬉しく思います。
    また、日々、お忙しくされているかとお察しいたします。
    日蓮・栄西・道元のエピソードも、大変興味深く拝見させていただきました。
    改めて、知らなかった細かなエピソードも交えていただけるので、面白いですね。(特に、日蓮と正法眼蔵の辺りが。)
    これからも楽しみにしております。
    2024年12月15日 13:43
  • 春之助

    たかっち様
    いつもありがとうございます!
    育児が忙しかったのと、いろんな宗教への配慮とかを考えつつ書いていると、なんやかんやと時間がかかってしまい、ほんとうに久々の更新となってしまいました…
    コメント頂けると励みになります!
    次回はもうちょっっとサックリ書きたいと思います。
    2024年12月18日 10:29