元・高麗連合軍が二度にわたって日本を襲撃します。
1274年の文永の役(ぶんえいのえき)と、1281年の弘安の役(こうあんのえき)です。
日本はいずれにも勝利しますが、
また攻めてくるかもしれない…という軍事的緊張は解けず、
さらに鎌倉幕府は恩賞(おんしょう、ゴホウビのこと)のやりくりにも頭を悩ませます。
そんななか、1284年に北条時宗が病気のため、満32歳の若さでこの世を去ってしまいます。
かわって9代執権に就任するのは、北条時宗の一人息子である北条貞時(ほうじょうさだとき)です。
といってもねー、彼、満12歳なんですよ。
小六ですよ!小六!!
さすがに執権として政治を主導するには無理がありますよねー…
なので、安達泰盛(あだちやすもり)という御家人が補佐をすることになります。
ん?
なんかこの名前、前回出てきませんでしたっけ??
そうです!
「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)のなかで、肥後(ひご)の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)から「ゴホウビください!」と直談判されているこの人です!!

ここから、文永の役のあと、恩賞を担当する立場にあったことが見て取れますが、
ほかにも様々な重要ポストを歴任してきた有力御家人です!!!
そんな安達泰盛は、北条貞時のお母さんのお兄ちゃんなのですが(つまり北条貞時のオジサン)、
父である安達義景(あだちよしかげ、覚えなくていいですよ!)が早くに亡くなってしまったため、
生まれたばかりの妹を養女として育てます(なんとこの兄妹、21歳もトシが離れておるのです!)。
というワケで、北条貞時にとって安達泰盛は、母方のおじいちゃんみたいな存在なのです。
母方のおじいちゃんって…
そうです!
外戚(がいせき)です!!
北条貞時にとって安達泰盛は、外戚みたいなものなのです。
そもそも安達氏は、源頼朝(みなもとのよりとも)が平治の乱(へいじのらん)に敗れて伊豆(いず)に流されたころから仕えている、それはそれは古い家臣です。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、源頼朝にずーっと付き従っていたチョビヒゲの方がいましたが、
彼が安達氏の祖である安達盛長(あだちもりなが、覚えなくていいですよ!)です。
安達泰盛は、そのひ孫にあたります。
なんだかややこしくなってきたので、簡単な系図で安達氏と北条氏の関係を整理しておきましょう。

これを見ると、安達氏は北条氏とガッツリ関係を結んでいることが分かりますね!
とにもかくにも、
“安達氏は古くからの有力御家人で、とくに安達泰盛は9代執権・北条貞時の外戚みたいなポジションにあるため、幼い執権を補佐することになった”、
ということをまずは理解してください。
こうして安達泰盛は、自身のポジションと政治経験を活かした政治改革をどんどん進めてゆきます。
これを、弘安徳政(こうあんとくせい)と呼んだりします。
さて、そんな安達泰盛を冷ややかな目で見ているのは、平頼綱(たいらのよりつな)です。
彼は御家人ではありません、御内人(みうちびと、または、みうちにん)です。
ん?御家人と御内人ってナニが違うの??って感じですよね。
簡単に言うと…
・御家人…将軍と主従関係を結んでいる家臣
御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)の関係で結ばれる
・御内人…得宗(とくそう)の家に仕える家臣
という違いがあります。
しれっとまた新しい用語が登場しましたねー。
得宗!
得宗ってなんや!!
ハイ、得宗とは北条氏の惣領(そうりょう)のことです。
この名称は、2代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)が出家した際、
「徳宗」(とくそう)と名乗ったことに由来するんだとか(諸説アリマス)。
イヤイヤ、漢字ちゃうやないかーーーーいッッ!!
ホント受験生泣かせですよね…
さきほどの系図を見ると、青枠で囲われている名前がありますよね?
それが得宗です。
ちなみに、北条時氏(ほうじょうときうじ)は早くに亡くなっているため得宗にはなっていません。
また、北条時政(ほうじょうときまさ)を得宗とする説もあります。
で、その得宗に仕える家臣こそが御内人なのです。
そして、御内人のなかのリーダーを内管領(うちかんれい、または、ないかんれい)と呼びます。
またもやややこしくなってきましたねー…
イラストでまとめて頭を整理しておきましょう☆

つまり、
将軍と主従関係にあるのが御家人で、
御家人の一人である北条氏の得宗に仕えるのが御内人で、
御内人のリーダーが内管領、
ということです。
ついでにいうと、将軍と主従関係にない非御家人(ひごけにん)なるものも存在します。
整理できましたか?
なお、執権と得宗の関係については鎌倉時代(7)で説明する予定です。
* * *
話を元に戻しましょう!
平頼綱は、御内人のリーダーである内管領です。
しかも、平頼綱の奥さんは北条貞時の乳母(うば)です。
平頼綱は、いわば北条貞時の育ての親なのです。
(この平という一族は由来がよく分かっておらず、いつのころからか北条氏に仕えていたんだとか…)
てなワケで、
“北条貞時の育ての親”である平頼綱からすると、安達泰盛の権勢っぷりは目に余るし、
“北条貞時の外戚的存在”である安達泰盛からすると、平頼綱は「御家人の家臣にすぎないんだから身の程をわきまえろよ」って腹が立つしで、
二人の関係はこじれてゆきます。
さらに、御内人たちは平頼綱を応援するし、御家人たちは安達泰盛を応援するもんだから、
両者の間の溝は深まるばかりです。
そんなあるとき、
平頼綱は「安達氏は将軍になろうとしているにちがいない!」と北条貞時にチクります。
なんでも、安達泰盛の息子である安達宗景(あだちむねかげ、覚えなくていいですよ!)は、
「実は、ウチのひいおじいちゃんは源頼朝の息子なのだ!」とか言い出し、
源氏を名乗りはじめたんだとか。
鎌倉幕府の将軍は、源頼朝にはじまり、
源頼家(みなもとのよりいえ)・源実朝(みなもとのさねとも)と3代続けて源氏が就任しました。
この3代をまとめて源氏将軍(げんじしょうぐん)と呼ぶんでしたよね。
ところが、源実朝の暗殺によって源氏将軍は絶え、
4代将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)と5代将軍・藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)は摂関家から迎えます。
この2人を摂家将軍(せっけしょうぐん)とか藤原将軍(ふじわらしょうぐん)と呼びます。
そして、6代将軍は後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)の息子である宗尊親王(むねたかしんのう)を迎え、
このころは宗尊親王の息子である惟康親王(これやすしんのう)が7代将軍の座に就いている、
そんな時代です。
そこに、安達氏が「ウチは源氏の血を引く一族なのだ!」とか言い出すもんだから、
平頼綱は「安達氏は将軍の座を狙っているのだ!源氏将軍の復活をもくろんでいるのだ!!」と解釈したワケです。
そうして1285年11月、なんだか自分ちの周りが騒がしいのに気がついた安達泰盛は、
惟康親王や北条貞時のもとを訪ねようと出かけます。
そこを御内人たちに襲われ、合戦のすえ安達泰盛は命を落としてしまいます。
すかさず、地方にいる安達氏の一族にも追撃の手がのび、
元寇(げんこう)で活躍した安達盛宗(あだちもりむね、覚えなくていいですよ!)が博多で討たれるなど、
およそ500人が自害または討ち死にしたと伝わっています。
(このとき没収した所領が弘安の役のゴホウビとして分配されたことは前回触れました)
11月に起きたこの事件を、霜月騒動(しもつきそうどう)と呼びます。
ということで、ここで本日のゴロ合わせ。

霜月は11月ですからねー!!
さて、安達泰盛の死後、政治を主導するのはもちろん内管領の平頼綱です。
とはいえ彼は御家人ではないので、評定衆や引付衆にはなれません。
それでも権力を独占し、幼い執権を差し置いて専制政治をおこないます。
ところが、彼の栄華は突然終わりを迎えます。
1293年、関東地方を大地震が襲い、
その混乱に乗じて北条貞時が命を下し、平頼綱は自害に追い込まれてしまうのです。
このころ平頼綱は出家して平禅門(へいぜんもん)と名乗っていたようなので、
これを平禅門の乱(へいぜんもんのらん)とか、平頼綱の乱(たいらのよりつなのらん)と呼びます。
* * *
北条時宗の急死
→幼い北条貞時の執権就任
→安達泰盛の改革
→平頼綱が安達泰盛を滅ぼす(霜月騒動)
→北条貞時が平頼綱を討つ(平禅門の乱、または平頼綱の乱)
という流れ、しっかり理解してくださいね☆
いよいよ満20歳となった9代執権・北条貞時が、得宗として専制政治を開始します。
これを得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)と呼びますが、
詳しくは鎌倉時代(7)でまとめてゆきたいと思います。
次回は永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)をゴロ合わせとともにお届けします。
【参考文献】
近藤成一編『日本の時代史9 モンゴルの襲来』(吉川弘文館、2003年)

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