今日はその続き、院政のはじまりを見ていきましょう!

1086年、白河天皇が、息子の堀河天皇(ほりかわてんのう)に譲位します。
堀河天皇はまだ8歳ということで、
白河上皇(しらかわじょうこう)が院政(いんせい)を開始します。
白河上皇が院政を始めた理由については、
1086年のゴロ合わせで詳述しているので、そちらをご覧下さい!
上皇のおうちを院(いん)とか、院御所(いんのごしょ、院の御所 でもOK!)などと呼ぶのですが、
院政とは、上皇が院(院御所)で、天皇を後見する形で国政を主導する政治形態をいいます。
ちなみに院という言葉は、上皇自身を指す場合もあります。
白河上皇ならば、白河院(しらかわいん)てな感じです。
ややこしいので、これ以降、上皇のおうちは院御所と書くことにしますね。
白河上皇がはじめた院政は、
このあと鳥羽上皇(とばじょうこう)・後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の計3代にわたり、
100年余り続きます。
当時、すっかり衰退している摂関家は、
院政をおこなう上皇と結びつくことで勢いを盛り返そうとします。
なお、その後も江戸時代にいたるまで、院政はちらほらおこなわれるのですが、
それについてはまた追々…
* * *
院政の仕組みは、こんな感じです。
・実 権:上皇(院)
・政 務 機 関:院庁(いんのちょう)…上皇直属の家政機関
・役 人:院司(いんし)…院庁の職員の総称
・命 令:院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)…院庁から出される文書
院宣(いんぜん)…上皇の意向を受けて出される文書
・警備の武士:北面の武士(ほくめんのぶし、北面武士 と書いてもOK!)…院御所の北面に組織
・財 源:院分国(いんぶんこく)・寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)など
・近 臣:院近臣(いんのきんしん)…院政を行う上皇の側近として権勢をふるう、
・近 臣:院近臣(いんのきんしん)…上皇の乳母(うば)の血縁者や受領(ずりょう)出身者など
なんでもかんでも「院」の文字がついているので覚えやすいですね!
* * *
補足説明をしておきたいのが、命令の部分です。
院庁下文(読み方注意!)と院宣、なんで2種類あるの?って感じですよね。
ここで、プリントにも載っている次の写真を見て下さい。

長野県立歴史館が所蔵する、鳥羽法皇(とばほうおう)の院庁が出した院庁下文です。
右上に「院廳下」と書かれていますが(「廳」を簡略化した漢字が「庁」です)、
これ、「いんのちょうくだす」と読みます。
院庁下文は、「院庁から下されたお手紙ですよ~!」という意味の、
この漢字3文字で書き始められることが多いです。
書き終わりは、院司が数名(この院庁下文では7人)サインをします。
このように院庁下文は、院庁という役所から、院司という職員が数名サインして出されます。
つまり、公的な性格の強い命令文なのです。
一方、院宣はというと、
天皇や太政官(だじょうかん、または、だいじょうかん)が出す命令文である宣旨(せんじ)の、
院バージョン(上皇バージョン)です。
上皇の意向を受けた院司が出すもので、
院庁下文に比べると、私的な性格の強い命令文といえます。
公的なのが院庁下文、私的なのが院宣、てな感じで区別してください。
いずれも、院政の発展とともに、国政一般に効力をもつようになってゆきます。
* * *
もひとつ補足説明を。
北面の武士についてです。
これは、院御所が雇った警備員です。
メンバーは源氏や平氏といった武士が多く、
源頼朝(みなもとのよりとも)のお父さんである源義朝(みなもとのよしとも)や、
平清盛(たいらのきよもり)のお父さんである平忠盛(たいらのただもり)もその1人です。
院御所の警備員になるということは、上皇や院近臣のそばに仕えるということです。
そんな権力者に顔を覚えてもらえれば、出世も夢ではありません。
北面の武士は、武士にとって中央進出の足場でもあったのです。
ところで…
なんか似たような名前の単語、ありましたよね…?
そうです!
滝口の武士(たきぐちのぶし)です!!
滝口の武者(たきぐちのむしゃ)とも呼ぶんでしたねー。
詳しくは平安時代(12)をご覧ください。
滝口の武士は、朝廷を警備する武士で、
北面の武士は、院御所を警備する武士です。
のちのち西面の武士(さいめんのぶし)なるものも登場しますので、
いまのうちに滝口の武士と北面の武士の違いを押さえておいてくださいね!!
* * *
その後、堀河天皇が成人し、関白には22歳のワカゾーが就任します。
1107年には堀河天皇が亡くなり、息子の鳥羽天皇(とばてんのう)が5歳で即位したため、
おじいちゃんである白河法皇(しらかわほうおう)にますます権力が集中するようになり、
院政は本格化してゆきます。
あれ?
なんか知らん間に、白河上皇が白河法皇に変わってますよ??
そうなんです、彼は1096年、娘の死をきっかけに出家しているのです。
天皇をやめると上皇(じょうこう)と呼ばれるようになり、
上皇が出家すると法皇(ほうおう)と呼ばれるようになるのです。
このことはプリントの右下にも書いていますので、確認して下さいね!
続いて1123年には、鳥羽天皇が息子の崇徳天皇(すとくてんのう)に譲位しますが、
白河法皇が院政を継続します。
その白河法皇が1129年に亡くなると、かわって鳥羽上皇が院政を開始するのです。
プリントの右上、院政期の社会にうつります。
①経済
○ 知行国(ちぎょうこく)の制度
これは、上皇・朝廷が、貴族や寺社などを一国の知行国主(ちぎょうこくしゅ)として認め、
その国の支配権にあたる知行権(ちぎょうけん)や収益権を与える制度です。
ん?ナニソレ??って感じですよね。
前回、公領のしくみはこうなっていることを学びましたよね。

受領(ずりょう)とは、国守(くにのかみ)レベルの国司を指すんでしたね。
国守とは、国司で一番エラい人のことです。
国司の四等官制(しとうかんせい)は、
守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)ですもんね。
四等官制って??という人は、飛鳥時代(8)を復習して下さい。
受領に任命されるのは中級貴族なのですが、これになれたらもうウハウハです!
このころには在京、イコール京都に滞在したまんまでも、つまり現地に行かなくても、
それはそれはもうガメツク儲けられたのです!!
うらやましいですよね…
受領になりたいですよね…
でもね、繰り返しますが、
受領に任命されるのは中級貴族なんです。
そこで!
受領に任命されたいのに任命されない身分の人を、
受領みたいにガメツク儲けさせてあげよう!!
というのが知行国の制度なのです!!!
じゃ、受領に任命されたいのに任命されない身分の人って、
一体どんな人なんでしょうか。
答えは…
まさかの、身分が高すぎる上級貴族です!!!!!
えぇ!?
貧しい下級貴族とかじゃないの!!??
って感じですよね…

まず、朝廷または上皇は、上級貴族を知行国主に任命します。
すると知行国主は、自分の子弟や近臣などを国守に推薦し、その推薦料をもらいます。
任命された国守もほとんどは現地に行かず、かわりに目代を派遣して実務にあたらせます。
知行国主は、朝廷に決められた額の税はおさめますが、
残りは自分の収益とすることができるのです。
簡単な図にすると、こんな感じでしょうか。
公領と比べると分かりやすいですかね?

身分が高すぎて受領になれない上級貴族が知行国主となって、
身近な人を受領に推薦して丸儲け、ってことです。
ややこしそうに見えますが、案外シンプルなしくみです。
このころ、朝廷の税収は減っていて、貴族たちに支払う給料もままならない状況です。
知行国の制度は、そんな貴族の経済的基盤を確保する目的で生み出されたのです。
といって、貧しい下級貴族を救うのではなく、
上流貴族たちがガッポリ儲けるための制度ってのが何ともガッカリですよね!!
○ 院分国(いんぶんこく)の制度
知行国主が上皇または女院(にょいん)の場合、その知行国を院分国と呼びます。
厳密にいうと、院分国と知行国はちょっと仕組みが異なるのですが、
大学受験レベルではこの理解でオッケーです◎
女院とは、上皇の近親のなかで、院号(○○院という称号のこと)を与えられた女性のことです。
保元の乱で登場した、美福門院(びふくもんいん)とか、待賢門院 (たいけんもんいん)がそうです。
知行国の制度・院分国の制度によって、公領は上皇や知行国主・国司の私領のようになり、
院政を支える経済的基盤にもなってゆくのです。
○ 寄進地系荘園
院政期、有力貴族や大寺院への荘園の寄進が増加します。
とくに鳥羽上皇の時代には、彼の周辺に寄進地系荘園がたくさん集まります。
不輸の権・不入の権(警察権の排除にまで拡大)を持つ荘園も一般化し、
荘園の独立性が高まってゆきます。
このころ、上皇が女院や大寺院に大量の荘園を与えることもありました。
有名な例を2つ見ておきましょう。
・八条院領(はちじょういんりょう)
鳥羽法皇(とばほうおう)の娘である八条院(はちじょういん)という女院が相続したもので、
平安時代末に約100ヶ所、最終的に約220ヶ所以上にのぼった荘園群です。
のちのち後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が継承し、
南北朝時代には、南朝(なんちょう)の大覚寺統(だいかくじとう)の経済的基盤となります。
ちなみに、八条院は1156年の記事にある、次の系図に登場しております。
近衛天皇のお姉ちゃんにあたる人物です。

・長講堂領(ちょうこうどうりょう)
後白河法皇(ごしらかわほうおう)が、長講堂(ちょうこうどう)という京都の寺院に寄進した荘園群です。
鎌倉時代初めに約90ヶ所を数え、
南北朝時代には、北朝(ほくちょう)の持明院統(じみょういんとう)の経済的基盤となります。
大覚寺統や持明院統については、また南北朝時代に詳しく説明しますね!
* * *
②宗教
○ 上皇による仏教保護
院政期、上皇たちは仏教をあつく信仰し、保護します。
白河上皇も鳥羽上皇も後白河上皇も、みんな出家して法皇となっています。
このころブームになっていたのは、
熊野詣(くまのもうで)と高野詣(こうやもうで)です。
熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)
熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)
熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)
以上の3つの神社をまとめて熊野三山(くまのさんざん)と呼ぶのですが、
これらに参詣することを熊野詣といいます。
もう1つの高野詣はというと、高野山(こうやさん)に参詣することをいいます。
さて高野山。
なんという宗派の総本山(そうほんざん、中心寺院のこと)だったか覚えていますか…?
ハイ、真言宗(しんごんしゅう)です。
「わっすれたわ~~~…」という人は、平安時代(3)を復習して下さいね!
浄土教と末法思想の広がりを背景に、
熊野三山や高野山は特別な場所と見なされるようになり、
上皇をはじめ、たくさんの人たちがここを目指したのです。
いずれも現在の和歌山県にあり、都からは結構遠いんですけどね。
2004年、熊野三山や高野山は、そこに至る参詣道もふくめて世界遺産に登録されました。
○ 僧兵(そうへい)の出現
荘園をたくさん所有する大寺院は、ドロボーなどから土地を守らなければなりません。
また、国府や開発領主といったさまざまな勢力にも対抗せねばなりません。
そこで登場するのが、僧兵です。
白い袈裟(けさ)で顔を覆っていたり、鎧(よろい)を身につけていたり、
長刀(なぎなた)で武装していたりと、ものものしいビジュアルをした下級僧侶です。
やがて僧兵は、強訴(ごうそ)をおこなうようになります。
神木(しんぼく、神様の宿る木のこと)や神輿(しんよ、おみこしのこと)を先頭に立てて、
朝廷や貴族に、自分たちの要求を無理矢理聞き入れさせようとするのです。

ウワー…めっちゃ怖いですねー…
武装したマッチョな僧侶が、おみこしかついで迫ってくるんですよ…
しかも「言うこときかんかったらバチがあたるぞー!」とか言うてるんですよ…
現代でさえこんなのが迫ってきたらめっちゃ怖いのに(まぁ迫ってくることはないでしょうけど)、
このころの貴族は、仏様とか神様とか怨霊とかバチとか、チョー信じてるんですよ!
だから、こんなことされたらもうめっっっちゃ怖いんですよ!!
僧兵の要求をのむしかないんですよ!!!
僧兵の襲来をおそれる貴族たちは、ガードマンとして武士を雇います。
これも、武士の中央政界進出につながってゆくのです。
そんな僧兵には、あの白河法皇でさえ手を焼いていたようで、
「天下の三不如意(ふにょい、自分の意のままにならないもの)」として、
賀茂川(かもがわ)の水
双六(すごろく)の賽(さい)
山法師(やまほうし、延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵のこと)
の3つを挙げています。
たびたび氾濫を起こす京都の賀茂川・双六のサイコロの目・延暦寺の僧兵、
この3つはどうも自分の思い通りにならない…と愚痴っていたようです。
(ほかは思い通りになるってことですよね…やっぱ白河法皇パネェ!!!)
強訴の常連メンバーとしてあげられるのは、
白河法皇をも苦しめた山法師こと延暦寺の僧兵と、
奈良法師(ならほうし)こと興福寺(こうふくじ)の僧兵です。
山法師は、比叡山(ひえいざん)のふもとにある日吉神社(ひよしじんじゃ)の神輿をかついで強訴し、
奈良法師は、
興福寺の隣にある春日大社(かすがたいしゃ)の榊(さかき)という木をささげて強訴します。
比叡山だから山法師、
奈良だから奈良法師、で覚えて下さいね!
ちなみに、興福寺と延暦寺はまとめて南都北嶺(なんとほくれい)と呼ばれることもあります。
(南都=興福寺、北嶺=延暦寺)
* * *
最後に解答を載せておきましょう!

次回は、保元の乱・平治の乱をまとめていきます。
更新が滞っていること、なにとぞご了承くださいませ。
画像出典
長野県立歴史館 https://www.npmh.net/index.php
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