
まずは、唐との関係です。
618年、隋にかわって中国を統一した唐は、長安を都とする大帝国をアジアに築きます。
中国の王朝の覚え方は、弥生時代(4)をご覧くださいね。
日本は、630年に初めて遣唐使を派遣します。
誰が派遣されたか覚えていますか?
最後の遣隋使としても知られる、犬上御田鍬でしたね!
しっかり復習しておきましょう。
遣唐使は、894年に派遣が中止されるまで、10数回海を渡っています。
これまで登場した人物でいうと、高向玄理や山上憶良、吉備真備・玄昉がそうです。
吉備真備・玄昉とともに唐にわたった人物に、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)がいます。
当時の唐は、楊貴妃(ようきひ)を愛したことで知られる玄宗(げんそう)が皇帝の時代です。
といっても玄宗が楊貴妃にメロメロになる以前、
「開元の治(かいげんのち)」と呼ばれる立派な政治をしていたころです。
阿倍仲麻呂は、唐の国家公務員試験である科挙(かきょ)に合格し、唐の役人になります。
中国人でも超難関の試験に、日本人が合格したのです。
阿倍仲麻呂はとてつもない秀才だったのでしょう。
玄宗に気に入られて様々な役職に抜擢(ばってき)されて活躍し、
李白(りはく)や王維(おうい)といった有名な詩人たちとも交流します。
異国の地でがむしゃらに頑張ってきた阿倍仲麻呂。
気が付けば日本を離れて30年以上がたっていました…
50歳を過ぎた阿倍仲麻呂は、帰国を決意します。
唐を離れる直前に催された送別会で、阿倍仲麻呂は次の歌を披露したようです。
「天の原(あまのはら) ふりさけみれば 春日なる 三笠(みかさ)の山に いでし月かも」

百人一首にも採用された有名な歌です。
「唐の大空を見上げてみると月が美しい、
この月はふるさとの春日にある三笠山で見える月と同じなんだなぁ…」 というような意味です。
唐を去る気持ち、故郷である大和国への気持ちをこの歌にこめた阿倍仲麻呂は、
753年に日本へ向けて出航します。
が!!
暴風雨にあい、現在のベトナムあたりに命からがら漂着します。
鑑真の来日のところでも触れましたが、当時の船旅というのは本当に命がけだったんですね…
遣唐使は「よつのふね」という別名があるように、基本的に4隻で派遣されます。
このうち無事に唐へ到着できるのは、だいたい1隻か2隻だったそうです…
「生きて目的地につけるかどうかはフィフティーフィフティーです!!」
なんて旅、行きたいですか?
ぜっっったいにイヤですよね…
でも、そんな危険な旅でも行きたい!!と願う先が唐だったのです。
それだけ魅力的な国だったのでしょうね…
さて、ベトナムから長安に戻った阿倍仲麻呂は再び唐の役人となり、
日本に戻ることなく73年の生涯を閉じます。
このように、帰国することなく異国で亡くなることを「客死(かくし)」といいます。
そういえば…藤原広嗣の乱のところで紹介した「吉備大臣入唐絵巻」。
唐に渡った吉備真備のピンチを救った鬼の正体は、阿倍仲麻呂でしたよね…
ん?吉備真備と阿倍仲麻呂って一緒に唐へ渡ったメンバーなんですよね。
ということは、この2人、顔見知りです。
吉備真備は752年に再び遣唐使として唐にやってきますが、
そのとき阿倍仲麻呂は帰国しようかな…と考えながら唐にいます。
そう、生きてます。
「吉備大臣入唐絵巻」に登場する鬼は、阿倍仲麻呂の生霊(いきりょう)ってことなんでしょうかね…
次に、吉備真備・玄昉・阿倍仲麻呂とともに唐へ渡った人物である
井真成(せいしんせい、いのまなり)も紹介しておきましょう。
2004年に中国の西安(長安があった場所)で墓誌(ぼし)が発見されたのですが、
そこに「井字真成国号日本」という文字が刻まれていたのです。
いまのところ、これが「日本」の国号が使用された最古の事例です。
ちょっと前までは大学入試にもちらちら登場しましたが、
墓誌の発見から10年以上が経ったので、最近はあまり見かけませんね…
ちなみに、井真成は現在の大阪府藤井寺市(ふじいでらし)の出身だったようなので、
藤井寺市は公式キャラクターとして「まなりくん」というゆるキャラをつくっています…なんてコアな……
語尾は「○○ナリ~!」です。
あはは。
遣唐使として有名な人物は、ほかにも橘逸勢・最澄・空海などがいます。
これについては後日お話しようと思います。
さて、唐への航路はというと、最初は朝鮮半島に沿ってゆく北路(ほくろ)でした。
しかし8世紀になると、南路(なんろ)をとるようになります。
このころ新羅との関係が悪化したので、遣唐使船も新羅の近くを通ることを避けたのです。
南路は途中で経由する島がほとんどないので、危険なんですよね…
コンパスもGPSもない時代、目の前に広がる海だけを見てひたすら航海するのは、怖いでしょうね…
大陸が見えたときの喜びはいかばかりかと。
そんな危険をおかしてでも行きたいと思う魅力的な唐ではありましたが、
755年に安史(あんし)の乱、さらに875年に黄巣(こうそう)の乱が起こり、どんどん衰退してゆきます。
894年、菅原道真はそんなガタガタの唐に行く必要はないと判断し、遣唐使の派遣中止を建言したわけです。
次に、767年に朝鮮半島を統一した新羅との関係をみましょう。
日本は、天智天皇のころから遣新羅使(けんしらぎし)を派遣し、
新羅もまた日本に使者を派遣するなど、両国の交流はさかんにおこなわれます。
しかし7世紀末ごろ、日本が新羅を従属国として扱おうとしたため両者の関係は悪化してしまいます。
結果、遣唐使は新羅の近くを航行することができなくなってしまいます。
ともあれ、民間の商人たちは往来を続けたようです。
最後に、渤海(ぼっかい)との関係です。
東満州・沿海州に栄えたツングース系の靺鞨族(まっかつぞく)や旧高句麗の遺民による国で、
7紀末に建国されて以降、新羅の北方にどんどん領土を広げます。
渤海は唐や新羅に対抗するため、日本に使者を派遣して国交を求めます。
新羅とモメていた日本はこれに応え、両国はとても仲よくなります。
渤海から日本にやってきた使者は、
まず現在の石川県につくられた能登客院(のときゃくいん)や福井県につくられた松原客院(まつばらきゃくいん)という施設に宿泊し、
そのあと平安京に到着すると鴻臚館(こうろかん)という施設で手厚く接待されたようです。
日本海沿岸で渤海系の遺物がたくさん出土したり、また渤海の宮都跡から大量の和同開珎が出土したりと、
考古学の面からも両国の友好的な関係をうかがうことができます。
それでは、最後に解答を載せておきましょう。

次回から2回にわたり天平文化を取りあげます。
画像出典
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=638
http://www.craftmap.box-i.net/
この記事へのコメント
まる
春之助
ご質問、ありがとうございます。
プリントの左側にある“654年 高向玄理(唐で客死)”の部分についてですね。
高向玄理は、608年に遣隋使として中国にわたり、帰国後、645年の大化の改新で国博士に任命されます。
その後、654年に遣唐使として中国にわたり、長安で病気のため亡くなるのです。
遣隋使と遣唐使を混同しないよう、注意してくださいね!
めい
676の誤りでは?
春之助
ご指摘、ありがとうございます!
訂正いたしました。
これからもよろしくお願いいたします。
高3
素敵なイラストありがとうございます!!
春之助
先生が授業でイラストを使っておられるのですね、わざわざお調べいただきありがとうございます!
また授業の復習に役立てて頂けると幸いです☆