57年 奴国王が後漢に使者を派遣する

日本史のなかで、最初に覚える年号は西暦57年。
宋の范曄(はんよう)が著したとされる『後漢書』東夷伝のなかに登場します。
まずは史料を読んでみましょう。







建武中元二年、倭の〔1   〕、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。〔2   〕、賜ふに印綬を以ってす。安帝の永初元年、倭国王〔3   〕等、〔4   〕百六十人を献じ、請見を願ふ。桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し歴年主なし。


さて、括弧に入る言葉は分かりますか?

 1…奴国(福岡県博多地方にあったとされる)
 2…光武(後漢の光武帝)
 3…帥升(すいしょう、師升と表記されることもある)
 4…生口(せいこう、奴隷の意)

ここはしっかり覚えておきましょう。

建武中元二年(西暦57年)、奴国の王が後漢の都である洛陽(らくよう)に使者を派遣しました。
すると、奴国王は光武帝から印綬(いんじゅ、金印とくみひも)を授かったのです。
その一辺が約2.3cmの小さな金印は、1784年に福岡県の志賀島(しかのしま)で発見されました。
教科書や資料集にもよく登場する、おなじみの「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)と刻まれた金印ですね。

テストでこの文字を問われたら、「ワノナノ国王」だったか「ナノワノ国王」だったかパニックになる人がいます。
そんなときは落ち着いて、意味を考えましょう。
「漢が認めた倭のなかにある奴の国王だよ」、すなわち漢>倭>奴と大きい順に書けばよいのです。
しかし、もう一つ気をつけなければならないのが、ここでは「倭」ではなく「委」の文字が使われていること。

ということで、今日のゴロ合わせ。

57年.jpg

これで覚えてしまいましょう!!

なお、帥升が奴隷160人を献上した安帝の永初元年はその50年後、西暦107年のことです。
その後、桓帝と霊帝の時代(2世紀)は、倭が乱れて長い間リーダーが現れなかった、
と『後漢書』東夷伝には記されています。
1世紀の日本のようすを伝えるたいへん貴重な記録ですね…







それでは、今日はここまで☆

この記事へのコメント

  • mow

    金印は、1辺2.3mmですか?23mm?
    2022年12月21日 19:33
  • 春之助

    mow様

    ご指摘ありがとうございます!
    なんとなんと…1辺2.3mmって…ちっさすぎですよね!!
    2.3cmに訂正いたしました、本当にありがとうございます。
    2022年12月21日 22:08
  • mow

    早速ご対応いただき、ありがとうございます。
    説明もイラストも面白く、楽しく学ばせていただいてます!
    2022年12月22日 00:17
  • 春之助

    mow様
    ありがとうございます。
    この記事を書いてから7年もたつのに、その間ずっと2.3mmになっていたとは…お恥ずかしい限りです。
    ご指摘、心より感謝いたします!!
    2022年12月22日 10:50
  • fd

    おもろいな
    2023年08月25日 18:04
  • 春之助

    fdさま
    ありがとうございます!
    2023年10月12日 13:44

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